今日で、あの日から10年。
お亡くなりになった方々のご冥福と被災された方々にお見舞い申し上げます。
あの日、ちょうど新築の引き渡しが終わり、午後から引っ越しの手伝いの最中に
あの揺れは襲ってきた。
当時、車のテレビから流れてくる映像を見て、彼女(嫁さん)の職場が海から100mの場所。
電話も通じず、絶望感に打ちひしがかれていたその時、見知らぬ電話番号から生きてるよとの連絡。
建物の屋上に逃げて無事だったが、そこから自分の車が流れて来たのが見えたとの事
その電話の後、全身の力が抜けてへたり込んだのを覚えている。
くしくも、その10年の時を経た3月6.7日に、その震源近くのキャンプ場へ
前日に雨が降り、当日は小春日和で少し風がある天候。
そう、花粉症の人にとっては最悪の状況。
牡鹿半島に入ると、山並みが黄色く霞んでいる。
自分は、花粉症ではないが、嫁さんはアレルギー持ちなので、
嫁さんは、やばいよ~を連呼していた。
営地に降りた途端、くしみが止まらなく早く薬飲みなさいと言われる程、
症状が酷い。マスク外してたが、仕方なくマスクをしながらのキャンプになった。
眺望が良いフリーサイトに設営。
眼下には、金華山そして太平洋が広がる。
今回もタープレスの仕様で、幕はゼンパイア・ミルブック
前回同様、前室に薪ストをセットしてお籠り仕様とした。
設営は、2回連続だった事も有りスムーズにに進み、10時からの開始で
昼食をはさみ、1時前にはほぼ完了。
日中は、幕に居ると暑いくらい。外でも一時フリースを脱いでいたほど暖かった。
ポン太を探せ‼(笑)
キャンプ2日程前に、嫁の幼馴染の友達がキャンプしたいが予約取れなかったので
夕飯までご一緒させてという事で、2時頃到着。
今晩の夕飯は、ダッチを使った丸鶏のローストチキン。
薪割りや炭起こしなど、色々やってみたい‼との事で、手伝ってもらった。
日も暮れて来た夕刻、薄い雲がかかっていたが、夕焼けが綺麗だった。
あの時は、晴れていたが陽が落ちてから雪が降ってきたが、夕焼けは綺麗だったな。
そうこうしているうちに、ダッチからいい香りがしてきた。
蓋を開けた瞬間、歓声があがる。
始めてやった割にはいい感じじゃないの?と嫁さん。
ただ、取り分けの解体には、苦労してたようだ。
暗くなり始めて、気温も急激に下がり始め、気付けば3度切る程。
幕内で夕飯を食べながら、昔話に花が咲いていた。
夕飯を終え、まったりタイムに突入し友人達が帰った9時頃には
0度近くまで気温が下がっていた。
空は、薄雲で星は見えなかったが、
あの日、津波が引ききらない嫁の職場に
救出に向かっていた時の、星空は凄かったな…
停電で辺りが真っ暗の中、普段見えないところにあるコンビナートが
炎上していて、唯一の光源になっていた。
嫁の職場周辺には、船や車がれきが散乱し、大型の車でないと浸水するほどだった。
幸い、その時は4tユニックのトラックだった為、目の前まで行けたが。
明けて、翌朝。綺麗な朝焼けを迎える
気温は、-4度。今シーズンの冬キャンプ最低気温である。
そう考えると、まだまだ軟弱キャンパーだなぁ~と思う。
レイトアウトは付けているが、14時までには出なくてはならない。
9時頃から撤収開始。
外で撤収していると、僕も行きたいと無言の圧を出す、ポン太
その後撤収を続け、昼食を挟み14時にはOUT出来た。
あの日、ここ金華山と牡鹿半島の間が、津波前兆の引き潮で海底が見える程
海水が引いたという。
それ程の自然の力。
不謹慎な言い方かもしれないが、
あの時停電になっても、寝れる自宅は有ったし、ライフライン止まっても
武井は有ったし、ランタンも有った。
ボンベの予備も充分に合ったから、自分の身を守る事は出来たし、
会社に発電機やトラックが有ったおかげで、その日夕方から
自転車で駆け込んできたお客さんにも対応出来た。
そういう意味では、キャンプという自然と向き合う事を趣味にしていて
良かったとつくづく思う。
自分も大切な友人を津波で亡くしているし、嫁も津波の映像や
あの時の映像を見るとフラッシュバックを起こして、
具合が悪くなったり、自分も嫁も涙が止まらなくなったりする。
10年なんて、地球の時間軸からとれば、1秒にも満たないであろう。
けど、自分は忘れない。あの日の記憶を。
僕も地震嫌いだわん
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